昭和40年05月08日 朝の御理解
ある、お道の熱心な先生が、あるとき自分の子供さんが病気になられた。医者はもう難しいように言う。その時に一晩中ご神前にぬかづかれて、一生懸命祈願をされておる。ご祈念をされておる。そしたら、朝方神様からお知らせを頂かれた。信者の子供が、例えばお前の丁度子供のように、医者から見離された。「どうぞ助けて下さい」というてきたときに、「これだけの祈りが出来るか」と仰ったそうです神様が。
その時に、初めて、本当に自分の子と思うとき、なら、それこそ、一晩寝らんでも御祈念させてもらう、おすがりさせてもらうのに、本当に、なるほどお取次ぎさせて頂いておるけれども、あいすまん事だと思うたと、そこんところをお詫びされ、そこんところを願うて行かれたら、奇跡的におかげを頂かれた、というお話がある。ま、これは、言うなら、ざらにあるお話でございますね。
また、ある先生は、信者の子弟が「どうでもその、試験が受かりますように」、「出来ますように」というて、願いにきた。そこで、先生、自分の子供の中にも、どうでもおかげ頂きたいと、子供の願いでもあり、親の願いでもある、そういう、「ああ」、「試験にどうぞ受かりますように」という時に、その先生考えられた。「私の子供は、どうなってもかまいません。
落第してもかまわん」と、だから、願いに来ておる信者の、誰彼の「どうぞ、合格のおかげを頂きますように」という願いをされた。そこに、信者は全部、合格のおかげを頂いた。「ね」、ところが、自分ところの息子は落第した。その時に、神様にほんとうに、お聞き届け頂いたことをお礼を申し上げられた。勿論、落第はしたけれども、より以上のおかげをその子供が頂いたことは、勿論です。
たとえば、この二つのお話を、皆さん、ひとつよう考えてみて頂きたい。ね、自分の子供がもう、医者から見離された。その、教会長先生が一心に、その子供のことを願われた。一晩中、ご神前にぬかずいて祈りぬかれた。そしたら明け方に神様から、ね。自分の子供の事といやあ、一晩中一睡もせずに、神様にすがるけれども、これが信者の子弟である場合、信者の子供が「どうぞ助けて下さい」というて来たときに。
ただ、お取次ぎさせて頂きましょうと、まあ、お願いさせて頂きましょうと、なるほど、御祈念ぐらいするだろうけれども、一晩中でも、その信者の子供のために、祈りができるかと。ね。こういう気持ちで祈れと。神様がお知らせをくださったと。ほんとうに、あいすまん事であったと、自分の子供の事といやあ、もうほんとに、一生懸命ね、一晩中、御祈念し通し、自分が、信者のことになったら、その御祈念が出来てないことを、お詫びをされたということ。そのことをお詫びされて、改めて、願われたと。奇跡的におかげを受けられたという話。
もう一つの話は、それは、試験のことと、人間の命にかかわることといえば、意味は違うけれども理屈はおな~じこと。人情の上においてもおな~じこと。親が子供のことを思うのに、みんなが一生懸命試験勉強して、試験が通りたい、試験が通りたい、通らしてやりたいのが親心、けれども神様、「私の子供は、かまいません。ですから多くの信者の一人の受験のことについては万事よろしゅうお願いいたしますと。
どうぞ、合格のおかげを頂きますように」というて、願われた。ね、おかげで沢山の信者の子弟の、とても難しか、例えて言うならばです。ネ、子供はとにかく、私立の程度の低いところでしか受けられんといったようなのが、県立に通った。皆通った。ところが、その、教会の息子さんだけは、落第された。神様は、厳しいごとある。けれども、そこの息子さんは、試験に落第したから、かえってこうおかげを受けたという、おかげは、その後に受けられたということは、勿論のこと。
信者の子弟の子供はみんな合格のおかげを頂いた。これに、よく似た私はお話を自分の上にもいろいろ体験をもっておる。これは、家の長男が高校受験のときであった。みんな、私はお願いさせて頂いた。そしたら、神様から歌舞伎芝居で「ああ」、寺子屋というお芝居があります。松王丸が出てくるね、はは、松王丸、松王丸ということは、松の、やっぱり松に関連がある事だから、何か御理解下されたなあと、こう思うた。
そしたら、松王丸が首実検のところを頂いた。ははぁ自分の血筋にあたるところの子供さんを助けるために、いわば、自分の息子を犠牲にした。ははぁこれは、自分の息子を犠牲にすることだなあと、私は、おもうた。勿論いま私がお話しをしたことと、寸分違わぬようなおかげを頂いた、皆さんが信心の稽古をなさるでしょうね。信心とは、『しんじん真心』まず、『しんじん信心』そして次に『しんじん神心』といわれております。信心とはまず、まず、まごころになれということです、ね、
次には、神様が信心を与えてくださるだろう。いわゆる神様を信ずる心を与えてくださるだろう。まごころになり信ずる心になり、ね、そこに神が信ずるものを信ずると仰る様な、おかげが感じられいただけるようになる、ね、そして愈々信心が進められていく時に、信心とは、「わが心が神に向こうて行くのを信心というのじゃ」と、仰る様にです、いわゆる、それを「しんじん神心」、かみごころです。
まあ、私が今、お話を致しましたのは、段々、信心の過程がですねえ、真心から信心そして神心へと、神心がこう移ってゆく、その過程のようなものだと、私は思うんです。皆さん、どこのにきを、お通りになっているんだろうか、信心の稽古さして頂いておられるが、どこの辺を皆さんは、稽古中だろうか。昨夜、総代会があった。非常に熱心に信心の共励があった様子でした、勿論私は、中に入りませんからよくは分かりませんけれども丁度11時ごろまで、熱心に信心の共励をなさった。
先日から皆さん、ご承知でない方もあるでしょうけれども、吉井の杉さんという、ここの初めのころの、一番総代の花形とでもいうかねえ、大変実意丁寧な方でしたが、奥さんは参って見えるけれども、ご自分は信心をもうやめたような状態でおられた。それが今度椛目の今度、御造営が始まるということを聞かれて、ね「あの中にどうゆう端役でもいいから一役立たせてもらいたい」というてから、この前からお参りしてみえる。
勿論、最初の頃の総代さんでありますから、別に、首にしておるという訳じゃないのですから、ね、総代さんとして、御用頂いてもらうように、お話させていただいて、昨夜、そういう意味での総代会に、だから一緒に参加しておられます。というように、そうした一つの働きの中に、十何年前の総代さんがです、復活してまた、総代としての御用でも頂きたいというような願い、いわゆるそういう生き生きとした総代会がです。
昨夜開かれておる。勿総代会の信心共励の目的というか、ポイントというか焦点、これは皆期せずして御造営のことになったらしい。そしてどんなに考えてもどんなに願わしていただいてもです、とても自分たちの知恵、力で今度のことが出来ることじゃないということが、これが結論としてそれが出てきた。次にだからですこれはもう本当に総代うって一丸となってです、神様におすがりをさしてもらい、修行でもさしてもらい、神様のおかげを頂かなければ出来るところじゃないというところに、結論がでた。ね、
そこで様々なこういう信心もさしてもらおう、ああいう信心もさしてもらおうという、話し合いの元にそのことを、昨夜高柴さん一同の方がここでお届けをされました。結構ですと、おかげを頂かれました。その時に私がその前に総代会のあっておる時のことを、お願いさせて頂きよりましたらね、あれはなんていうでしょうか、トラックに「ガサーっと」こう泥を鋏んでからトラックに載せる機械がありますねえ。ね、
長がいそれがですね、一山むこうまで届くごと長いんですよこれが。だから「一山むこうの土をガサーっとこうトラックに載せるとこ」を頂いた、なるほどそういうあり方をもっての信心になるときです、なるほどとても自分たちの知恵やら力でできることではない筈のことがです、おかげになってくるような働きが始まるという事だと私は思うた。なるほど、これがというたらおかしいですけれどね。
いかに神様にこのことが、例えば御造営のことが神の願いであり悲願だ。また信者一同の、それが願いである。ね、そこで、神様の願いと氏子の願いというものが、そこに一つになるということ。そういう一つになるという働きというものが、只今、私が申しますように、「真心」、「信心」、「神心」にならなければ、そういう働きにはなってこないということ。近所に御普請があるげなけんで、棟上の加勢にいかにゃならん。
どうしても加勢にいかにゃならん。親戚に今度御普請があるけんで、(お多福?)の一つでも持っていかなきゃならんね。どういう事になるでしょうかそこで私が一番初めに申しました、ある教会の先生が自分の息子さんの事を、願われるときに自分の事なら、一生懸命一晩中でも祈らして頂くけれどもね。果して信者の子供の時にこういう祈りをさして頂いておっただろうかと、気付けられてからその事を詫びられて、そうならなくにしてもそう詫びられて、信心が為されるときに奇跡的なおかげになったようにね、
いうならばいわゆる私のこととしての、信心じゃなからなければならないという事になってくるのじゃないでしょうか、ね。御造営が始まって様々な人達が、沢山な、様々な願いというものを、お取次ぎにもって見えられます。それこそ、お取次ぎさせて頂いてから、ほんに殊勝な心掛けだと思うようなお取次ぎをなさいます。ね、まあゆうなら中にはこんなものもあります。ま、たとえですよ。
「どうぞ100万円宝くじに当たりますように」と、「もう、当たったらそんかわり、そのままお供えしますけん」ね。自分ないっちょん苦しまん、100円なら100円、その宝くじ代ば出したらそれで良かっちゃん、ね。「100万円の宝くじが当たったらみんなお供えします」と。ね、「おかげ頂いたらお供えいたします。」いかにも、殊勝な心掛けのようであって、極端にいうならば、そういうようなものです。
そういう願いというものは。ね、今日は、私は、私のこととして、ではなくて、私のこと以上の話と、私のこととしての話をさせて頂いたですね。一番初めに申しました話はそれです。私のこととしての願い。もう一つの、私以上のこと。いわゆる、私というものを空しゅうして、犠牲にしてということ。二つの先生の、例を持ってお話しましたですねえ。だから、それ以下はどんだけあるかは、分からんのですよ、ね。
近所に御普請があるけんで、(胴突き?)の加勢にいかにゃならん、棟上の加勢にいかにゃならんていう程度のところから、あるんですよ。そして、そのことをです。ね、例えばほんなら、その中間であるところの私のこととしてという信心に一つならしていただかにゃいけん。あぁほんとに、おかげを受けられんのは、まるきり他人事のごと思うとるっちゃん。ね、よそ事のごと思うとる。他人のごと思うとる。
自分の親戚の事ぐらいにしか思うちょらん。自分の事としてという事になっていないんだもの。これでは、おかげを 受けれん筈だということにならなきゃいけんのです。そこに、神様の願いと氏子の願いがぴたっと沿いあうのじゃないのでしょうか。 神様のことは、即、自分のこと、そこに神様は氏子のことを、即、神様のごじぶんのこととしての、働きが私は、始まると思うんですよ。そうでしょうが。
いかに神のねがいといい、私どもの願いというてもです。ここに、そういう他人的なへだたりがあっておかげが、頂ける筈がありませんです。ね、そこで、さあ、皆さんに一つ思うて頂きたいと思うんです。自分のこととして、ね、100万円の家を建てたと思いなさいませ。ね、今どき、100万、200万で建つ家はないでしょうけれどです、自分のこととしてです、100万円の家を建てると思わせて頂きなさいと。
そのかたが10倍なら1000万円です。ね、お座敷は、人がつくったと、改造したと、ね、いう気持ちになりなさいませ。50万円かかった、自分のこととして、ちょっとこの頃、梅雨じゃけ、雨漏りのするから、ちょっとあっちこっち、手直しさせていただいたら、10万円かかった。ね。ちょっと手直しさして頂いた気持ちになろう、なる人が100人おって御覧なさい。ね、
それから先はです、いわば近所に御普請がありよるき、胴突きの加勢にいかにゃならん、棟上の加勢にいかにゃならんという人達が、沢山それに、ついてくればそれがおかげなのです。ね、いかに願ったところで、すがったところでです。その願いが、すがりがです、自分のこととしての願いにならなければ、駄目だということ。ところが、実際はです、先ほど申しました先生の話じゃないですけれども、ね、
自分の子供のときには、一生懸命なれるけれども、信者の子供の時には、一生懸命になれない。ならない、そこをです、詫びられたということ。ね、詫びれば、だから許してやりたいのが親心であるといったようなです、働きにもおかげにもなっていこうじゃないですか。私が、昨日の、昨夜の、総代さんがたの、熱心なあぁ、信心の共励、そして、その結論として出た、事柄をです、お届けさせて頂きながら、昨夜、そのことをお願いさせて頂きよりましたら。
只今、頂きますような御理解のヒントを頂きました。「ね」、どうぞ皆さん、私のこととして、例えば、夫人総代さんがたに神様がです、「ね」、うちわ太鼓を叩いて、一生懸命その、そのことを願っておられる。ね、(内輪太鼓?)ということは、内輪のこととして、自分のこととして、祈れということであろうと、私は、おもうた。だから、(こうしゅう?)委員というものが出けた。自分のこととして祈る。それを、わたくしは、「真心」、「信心」、「神心」という過程を通らせて頂きながらです。
信ずる心、まごごろ、そして信心がいよいよ神心(かみごころ)になってまいりますとこに、それをもう一つ、超越した、もう、自分のこと段じゃないということなんです。私というものを、より、空しゅうし、犠牲にし、そういう心を私は神心(かみごころ)というのじゃないかと思うんですよ。ね、だから問題は、神心を目指しての所で御座いますけれども、一足飛びに神心(かみごころ)になれる筈はありません。ね、ですから先ず、この度のことはです、なるほどおかげを頂きよると思うものはです。
心にこれだけ私の事としての願いに、これだけ間隔がある開きがあるもの、これじゃおかげを頂けん筈じゃという所をです。詫びてゆくと言う様な信心から、先ず始められたらそれがです、それが自分のものになって来るおかげになると思うんです。そうでしょうが、私の家が建ちよるとじゃけん。100万円の家を建てよるとじゃけん。建った時には、自分の物でしょうもん。というそれは御徳なんです。どうでも一つあの椛目を上げて、この度はそう言う様な所に一つ焦点をおいて、信心を進めて行きたいと思いますね。
おかげ頂きました。